2014年9月28日日曜日

以前に行った吊り橋

画像の整理をしていたら、4年ぐらい前に行った、吊り橋の写真が出てきた。折角なので、ブログに残しておこうと思う。


静岡県榛原郡川根本町千頭(しずおかけん はいばらぐん かわねほんちょう せんず)の寸又峡(すまたきょう)という場所にあり、「夢の吊橋」と呼ばれている。

見ての通り足場は狭く、橋を支えているワイヤーも細いので、ものすごく揺れる。一度に渡れるのは10人までと制限されているらしいけれど、僕が行ったときは12月だったからか、まったく他の人がいなかった。風景はとても綺麗だったので、人気のスポットなのだとは思うけれど、絶えず観光客が溢れている、というわけではないらしい。

実際に渡ってみた感想は、まずはめちゃくちゃ怖いというのが勿論あって、その次は、財布とか携帯電話とか落としたら嫌だな、というものだった。ズボンのポケットに穴が開いていないか、何度も確かめた。下にある湖には、結構色々なものが沈んでいると思う。


帰り道に、もう一カ所、別の吊り橋に行った。この日は、そういうテーマの旅だった。こちらも同じく榛原郡川根本町にあって、「塩郷(しおごう)の吊橋」の呼ばれている。大井川という川に架かっていて、川のすぐ横に大井川鐡道という線路が走っているので、電車が通るときに渡っていれば、足元を列車が通過していく光景を見ることができる。蒸気機関車が走る時間帯もあるようで、その手のファンの方々には垂涎のスポットらしい。

こちらも渡るときすごく怖かったけれど、ここなら物を落としても何とかなるんじゃないか、という安心感もあった。結局、吊り橋の怖さは、自分が落ちたときや、物を落としてしまったときに、どの程度のダメージを負うか、リカバリーは可能か、といった観点で決まる気がした。

2014年9月24日水曜日

3年半前にこびり付いた刀の錆を、舐めて落とす

ネット大喜利をやっていて、滑ったり負けたりすることで、悲しいとか、悔しいとか、そういった感情を持つことはわりと多くあるが、それよりもさらに深いマイナス状態まで心が落ち込むことはそれほどない。大抵はすぐに切り替えることができ、忘れてしまうものだ。

ただ、ごく稀に、猛禽類の爪で魂を抉られたような、錆びたスプーンで泥を掬って舐めているような思いになることがある。それは、「みじめ」という感情である。

例えば、ネタボケライフの第1282回。もう5年近く前のことだが、このときの異様なまでの滑りっぷりは、鮮明に覚えている。合計で20.88ptsという低さは、尋常ではない。偏差値も26.55で、定員割れの学校にすら入れそうにない。

他には、ぼけおめトーナメント2010-2012の地区トーナメント3回戦。高点のネタは特に問題はないのだが、15位にある低点のネタが酷い。このときは、どうすればウケるのか、どうすれば勝てるのかに執着し、頭の中でぐるぐると色々なことが巡った結果、「和田アキ子のAAネタ」という最悪の選択をしてしまった。有名シェフがいるホテルの朝食バイキングで、ふわふわのスクランブルエッグや厚切りベーコン等々が並ぶ中、ゴムの味しかしない茹でたビーチサンダルをくちゃくちゃ噛むようなものである。

さて、上に挙げたものよりも、鮮明に覚えている「みじめ」がある。それは、今から3年半近く前、2011年の5月の出来事だ。

当時、ぼけおめ大リーグでは、RUNNERS HIGHさんが無類の強さを誇っており、最上層のメジャーリーグにおいて皇帝として君臨していたが、多忙の為、しばらくぼけおめ大リーグでの投稿を休止する、という話を管理人さんに申し出たところだった。僕はまだ大リーグに参戦してから数か月というところで、一進一退をしながらも徐々に上位リーグへと歩を進め、3Aに在籍していた。

僕は「いまランハイさんが休止してしまったら、僕がメジャーに上がれても、憧れの皇帝と戦うことができない」と思い、ぼけおめ大リーグのWebページ上部にある簡易掲示板のようなところに、以下のような書き込みをした。

ジャスティス智彦 > 【管理人様へ】現在3Aにいる僕が第109戦でメジャーに上がることができ、かつRUNNERS HIGHさんがメジャー残留をした場合、RUNNERS HIGHさんは第110戦も参加する、ということにしてもらっていいでしょうか?本人の了承は得ています。我儘言ってすみません。

この試み自体は悪くはなかったと思う。実際にランハイさんと戦ってみたかったし、こうすることで自分の気持ちを鼓舞する意味もあった。ただ、その後の結果に、大きな問題があった。僕はクソみたいに滑り、昇格どころか、2Aに降格した。対するランハイさんはと言えば、メジャーリーグで4位をとり、難なく残留した。

この時ほど、ネット大喜利をやっていて惨めな思いをしたことはない。自分の自惚れや厚かましさに腹が立った。多忙な方を巻き込んで迷惑を掛けてまで我を通したのに、この有様。ただのクソ滑りではなく、破滅である。このときに脳にこびり付いた大きな垢は、ずっと長い間、少しも剥がれ落ちることなく、僕に寄生し続けていた。そして、それからずっと、僕がメジャーリーグに上がることはなかった......


......のだけれど、昨日結果が出た、ぼけおめ大リーグ、第168戦

3年半前の世界に忘れてきたものを、ようやく取り戻せるチャンスがきた。

2014年9月23日火曜日

Natural Information 6:55 p.m.

帰り道のことだ。

電車を降り、改札を通り、自宅へ向かうべく駅の敷地から出たところで、二度声をかけられた。

一度目は正面に居たティッシュ配りの若い女性で、「どうぞー」という声とともに、ポケットティッシュを手渡してきた。ちょうど鞄に入れておく分を補充したかったので、素直に受け取った。隣駅にあるパチスロ店のチラシが挟まっており、バットマンの絵が大きめに、吉田秀彦の写真が小さめに載っていた。

貰ったティッシュを鞄に仕舞っていると、今度は背後から、「すいません」と声をかけられた。自分に対するものかどうか分からなかったが、取りあえず振り向くと、若い男性がすぐ後ろにいた。そして、「これ、落としましたよ」と言って、黒い色のタバコの箱を差し出してきた。

僕は煙草を吸わないし、過去に吸っていた期間もないし、これから吸い始めるとしてもいきなり箱が黒い品種を選ぶことはないので、「いえ、僕じゃないです」と言って、その場を離れた。途中、一度後方に目を遣ると、若い男性はさっきの場所から動かず、手に持った煙草の箱をじっと見つめて、どうしようかと思案している様子だった。

歩きながら、何故だろう、と考えた。何故あの若い男性は、僕が煙草の箱を落としたと思ったのだろうか。そして、ふと考え付いたのが、"Natural Information"という概念だった。

"Natural Information"とは、「人間が自然と発している情報」のことである。その瞬間に頭に浮かんだ言葉だけれど、既に似たような概念の別の言葉があるかもしれない。要するに、自然体の外見、表情、仕草、動作、雰囲気、佇まいなどから発せられるその者の状態や心情や要望のことで、意図されていないノンバーバル・インフォメーションとも言える。

若い男性は、きっと、歩いている僕の背中から、「私は黒い箱の煙草を吸っていて、たまに道端に落としてしまいます」という自己紹介を感じ取ったに違いない。だからこそ、とっさに見ず知らずの男に声をかけ、親切にも煙草の箱を差し出してくれたのだろう。だが、若い男性が感じ取った情報は、残念ながらノイズだった。Natural Informationは、通常、正確に掴み取ることは難しい。

僕は年に一回あるかないかの確率で、混雑している電車の中で貧血や酸欠を起こすことがある。視界が真っ白になり、周囲の声が微かに聞こえる程度にしか意識が残らず、酷いときはほとんど気を失ってしまう。車両の中にある緊急停止ボタンが押される事態になったこともある。

予兆がきた段階で一旦電車を降りて駅のベンチで休んだり、電車内の壁際に寄りかかって深呼吸をしたり、迷惑を承知でその場にしゃがみ込んで回復を待ったりするのだけれど、有難い救いの手が差し伸べられたこともある。

以前、電車が一時停止を繰り返して次の駅までいつまで経って着きそうもないのに、タイミング悪く、「あ、これ、ちょっとまずいかも」という状態になってしまい、シャツの中で一滴の汗が背中をツーッとつたい落ち、吊革を握る手を強張らせたとき、「大丈夫ですか?席、どうぞ」と声をかけてくれた紳士がいた。

そのときは本当に嬉しくて、神様に出逢ったような気持ちになった。寝冷えや下痢で物凄くお腹が痛くてキュルキュルの波がピークのときに辿り着いたトイレのようなもので、人から受ける親切や優しさが如何に素晴らしいものかを再確認させられた。いま思えばあの紳士は、Natural Informationを素早く正確に把握し、それをすぐ行動に反映させられる能力を持っていたのだろう。

ここ最近、電車の中で、「おなかに赤ちゃんがいます」と書かれたキーホルダーを鞄にぶら下げている女性を見かけるようになった。マタニティマークと呼ばれるもので、隠れている部分の言葉を補足すると、「おなかに赤ちゃんがいますので、諸々ご配慮をお願い致します」という意思を持ったメッセージである。

このマークを、僕はとても気に入っていて、同じように「足を怪我しています」とか、「見た目はだいぶ高齢ですがまだまだ健康です」とか、周囲の配慮を促す表示がもっと沢山あってもいいのでは、と思うこともある。つまり、それぐらい、Natural Informationを正確に感じ取れる人は少ないような気がするからだ。

いちいち周囲に見えるように表示したりアナウンスしなければ伝わらない、という状況が良いものとは思わないけれど、どちらか分からず判断に迷い行動にうつせなかったり、誤った解釈をして親切のつもりが相手に不快感を与えてしまうよりは、余程スムーズに事が運ぶだろう。太っているだけなのか、おなかに赤ちゃんがいるのか、老け顔の40歳なのか、若々しい80歳なのか、といった判断材料をNatural Informationだけで正解を掴むことは困難だ。周囲を観察し、人工的なメッセージを見つけて対応するようにしつつ、Natural Informationを感じ取る訓練をしていけばいい。

ところで、疲れていると周りを見る余裕などなく、電車の席で眠りこけるか、スマートフォンをいじって時間が経つのを待ってしまうこともあるだろう。座席に腰掛け、寝ているわけでもないのに目を瞑ったり、本や携帯電話に目を落として、「もしかしたら周囲に着席を必要としている人がいるかもしれないけれど寝てたり読書に集中していたりしたので気付きませんでした」モードを発動させてしまうこともあるだろう。それはそれで仕方がない。たまには自分にも優しくしなければならない。

話が色々と展開して結局何が言いたいのかが散らばってしまったけれど、つまりは、ちゃんと状況を把握して、善意をもって的確に行動できるようになろう、ということだ。もしいつか、僕が黒いタバコの箱を拾ったら、周囲を観察し、落とし主を見つけ、「これ、落としましたよ」と言って差し出し、「ありがとうございます」と感謝されたい。

2014年9月21日日曜日

大喜利PHPの話

大喜利PHP」という所がある。

このブログを見に来てくださる方々には言わずもがなだと思うけれど、ネット大喜利の場を提供しているWebサイトで、データベースや補助ツールが充実しており、参加者が色々楽しめるようシステムが作りこまれている。

一番の特徴は投稿時間と投票時間が基本的には3分ずつしかない、という点だと思われ、参加者にとってネタを考える時間が短い、いわゆる「短考型」の筆頭だろう。

僕はずっと、大喜利PHPとは反対側にある「長考型」のネット大喜利サイトで遊んできた。ボケ天も、ネタボケライフも、ぼけおめも、ネタを考える時間が数時間~数日は与えられ、幾つもネタを考えてどれを投稿するか決めたり、一度考えたネタをしばらく時間が経ってから見直したりすることが可能だ。長考できるからといって参加者全員がネタづくりに時間をかけているとは限らないけれど、実際に使う時間は短かったとしても好きなタイミングで思考できるので、期間を限定された短考とは異なる。

短考型よりも長考型のほうが良質なネタが揃っている、という視点は、間違いではないと思う。ただそれはレベルの差ではなく、ルールの差だ。何事も、費やす時間の長さに比例して、良いものができる確率は高まる。3分で絵を描く場合と、3日で絵を描く場合とでは、自ずと完成品の質に差が出る。ルール上、大喜利PHPでは、良質なネタが揃いにくくなっている、という話だ。

2014年の4月に、初めて大喜利PHPをやってみたときに一番強く思ったのは、「何でこれが上位なんだよ」とか、「こんな単純なネタばっかりなのかよ」といったことだ。それは、参加以前に少し様子を眺めていたときも思ったことでもある。

時間が短すぎて、ただ単にお題に沿うだけのことや苦し紛れに何かを書くことに精一杯で、短絡的で捻りのないネタが多くなってしまっている。長考型のネット大喜利サイトだったらまず最初に切り捨てられるような発想や表現が、平気で跋扈している。自分のネタに対する結果・反応がすぐに出ること、回転の速さ、手軽さなどは魅力的だけれど、面白いネタに出逢いたい、面白いネタをつくりたい、と思ったら、どうにも確率が悪く向いていないように感じる。

しかし、4月から参加してみて、昨晩「OOGIRI CLIMAX SERIES 13」という大喜利PHPの大会に出場してみて、感動させられることも少なくなかった。よくぞ3分でこんなすごいネタを、と思わせられることが、何度もあった。

瞬間的な発想や表現に確かな切れ味があるもの、すべてを突き破るような勢いがあるもの、お題を提示されてから僅かな時間の中で驚くほど遠くまで思考が到達していることが分かる洗練されたもの。プロ棋士の将棋で、残り時間がなくなって秒読みになったときに出る鬼手のような凄みを感じるネタが、幾つもあった。大袈裟に言えば、人間の凄さを感じた。

思い出したのは、『ダイの大冒険』に出てくる魔法使い・ポップだ。作中メインキャラで唯一の一般人であるポップは、序盤こそはヘタレだが、どんどん成長し、最後は勇者であるダイや敵の大魔王にすら肩を並べる大魔導士になる。

そのポップが、最終決戦の場で発したのが、下記の台詞だ。

「残りの人生が50年だって5分だって同じ事だっ!!! 一瞬…!! だけど… 閃光のように…!!! まぶしく燃えて生き抜いてやる!!! それがおれたち人間の生き方だっ!!!」

長考だろうが、短考だろうが、若者だろうが、老人だろうが、関係はない。与えられた時間の中で考え抜き、閃光のように輝き燃えるネタをつくる。それでいいじゃないか、と思った。

いつか僕も、大喜利PHPで、輝きたい。