2011年9月15日木曜日

温泉紀行-弐の湯-

箱根山から南方に視線を這わせよう。
伊豆半島の付け根から、太腿部へと、舐めるように。

今回取り上げるのは、熱海である。

山から海に。神奈川から静岡に。
地理区分的にはそれなりの移動を伴うような印象だが、箱根と熱海との二点間直線距離は約15kmと、非常に近い。

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※この記事内の写真はフリー素材屋「足成」でお借りした

熱海温泉は、日本の三大温泉街のひとつに数えられる。
都心からアクセスしやすいリゾート地としての地位を築いており、数多くの文学や映画等の作品舞台となってきた地としても有名でもある。

熱海の温泉に関する特徴的な話としては、海水の混入による泉質変化が挙げられる。
元々は、熱海のほとんどの源泉は硫酸塩泉だったのだが、開発のために掘削(ボーリング)を多数行った結果として、温泉水に混入する海水量が増加していき、塩化物泉へと変化をした。ただ、少し内陸地に進んだところにある温泉は元々の泉質が保たれていることも多く、つまりは、ひとつの温泉地で異なる泉質を楽しめるという効果が生じているとも言える。

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さてここからは、僕が熱海へ訪れたときのことを語る。

上述した通り、前回の記事と今回の記事は、空間的には相当に近いが、僕がいつ訪れたのかという時間的な観点で言えば、相当に遠い話となる。少なくとも、デジタルカメラを持って独り歩きができるような年齢でなかったことは、手持ちの写真素材が無いという事実から推し量れるであろう。

僕が小学校の高学年になるくらいまでは、家族で出掛けるというイベントが頻発していた。決して裕福な家庭ではなかったので、トータルコストがそれほど掛からない小旅行が、我が家なりの休日の過ごし方だったのだろう。

熱海への旅行も、そんな「我家的休暇」のひとつだった。

小さい時分の話とは言え、幼年よりは少年という表現が適切な時期にはなっていたので、母親と一緒に女湯に入るということはなく、温泉や風呂に関する手続きや行為については平均的な同年代よりも極めて成熟した知識と技能を有していたので、この頃にはもうすっかり独り湯浴みを両親から認可されていた。宿泊先に到着するなり真っ先に単身で露天風呂(温泉)に突入するのは、子供の頃から僕にとっては特別でなかった。

思う存分温泉を満喫した僕だったが、熱海における一番の思い出は、何と言っても夜の懐石料理である。次々と部屋に運び込まれてくる大小の器と色鮮やかな食材は、大人から子供まで楽しめるものであり、我が家の面々も頬を張っては緩ませ重厚な満足感を顔に浮かべていた。

僕以外は。

三つ子の魂百までと言うのだろうか、今現在になってもあまり変化していないが、僕は極度の偏食家である。
僕としては、僕が悪いのではなく僕の味覚がそういう風にデザインされているのが悪いのだと言いたいのだが、それでも我慢して食べるのが世間的にはどうやら美徳であるらしい。

大人と呼ばれる年齢に近付くにつれて嫌なものでもどうにか食べる技術を身に付けてきたが、子供の頃は駄目なものは梃子でも口を動かせないほど駄目だった。しかし、僕の両親はそんな僕に対して寛容ではなく、出された料理を一口も食べずに残すことは、犯罪であるが如く許されなかった。

熱海の夜、他の人間がすっかり料理を食べ終わった後も、僕だけは焼き茄子と向き合っていた。焼き茄子の向こうには鬼の形相をした母親が居り、さらにその向こうにはガラス越しの夜空があった。僕は、茄子から目を逸らし、母親の顔を見るふりをして、夜空を眺めていた。

「早く食べなさい」と静かに言う母親。
不貞腐れた顔で無視をする僕。

そんな状態が小一時間続いた頃、突然、母親が怒鳴り声を上げた。
「いい加減にしなさい!!」

丁度夜空の色が焼き茄子の色に見えてきたこともあって、僕は泣き出した。
そして、観念したように恐る恐る、ほんのひと欠片の焼き茄子を口に含んで、そして次の瞬間、胃の内容物をほとんど吐き出した。

騒然となった室内において、渦中の人間である僕は、なぜか冷静になっていた。「もうこれで焼き茄子は食べなくてもいいに違いない」などと、小賢しいことも考えていた。

落ち着いて観察すると、僕の身体は涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃになっていた。
温泉に入りたいな、と思った。

2011年9月7日水曜日

温泉紀行-壱の湯-

初陣を飾るのは、箱根の地である。
思い出の場所だからだ。

小田原駅と強羅駅を結ぶ箱根登山鉄道の路線において、箱根板橋駅以外で「箱根」の名を冠しているのは箱根湯本駅以外になく、また、箱根湯本こそが箱根の入口であり本陣でもある。

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駅前の道路は商店街と旅館街が併設されたような賑わいがあり、かと思えばすぐ裏手には早川が流れ、自然の合間を縫うように箱根旧街道が敷かれている。この賑やかさと静けさのまとまりが、すなわち箱根の魅力だろう。

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ところで、箱根登山鉄道と言えばスイッチバックが有名だ。スイッチバックとは、簡単に言えば山麓と山頂をジグザグな線路で結び、その線路を列車が前向き走行と後向き走行を切り替えながら進んでいく方式である。

勾配の急な斜面を鉄道が登り降りするための手段なわけだが、見ようによっては前進と後退を繰り返しているわけであり、そうやって次第に目的地へと到達していく様子には、どこか人間的なものが感じられる。

閑話休題。

箱根湯本駅を出て、道路の反対側に行き、振り返ってみると、当然箱根湯本駅を正面に見ることになるのだが、視点を少し後方にずらすと、駅の背中に特徴的な看板を捉えることができる。

それが、【箱根湯本温泉 かっぱ天国】だ。

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街の散策や登山や街道歩きで疲れた体を癒すに丁度良い。
湧き出た汗を流すには、湧き出たお湯が最適である。

泉質、湯加減、建築的構造等については特に書かない。
そういった要素を、この温泉紀行のテーマにするつもりはない。

さて、上に載せた3枚の写真は、どこからか拝借してきたものではなく、いずれも僕自身の手が(デジタルカメラを使って)撮影したものである。撮影時は単独行動をしていたのだが、親戚一同で祖父の米寿を記念するという名目で旅行をしている最中だった。

この旅行の際、祖父はやけに嬉しそうな顔をしていて、饒舌だった。旅館に到着してすぐに、戦時中のことや祖母との馴れ初めの話をし始めたときは、耳を疑った。祖父の親友の妹が祖母であるという話。どこぞの橋の上で接吻をしたという話。

戦地において敵軍に見つからないようライトを消したままトラックで物資を運搬した話以外は全く以て聞くに堪えぬものだったので、一人で外出し、うろうろしながらカメラを構えた、というわけだ。

旅行等の特別な場ではあまりコミュニケーションを取らなかったが、孫一同の中で最も祖父と仲が良かったのは、僕だった。僕と二人で遊ぶことや話すことが多く、そのときの祖父が一番楽しそうな顔をしていると、僕は勝手に評価していた。今思えば、箱根旅行の時、僕が祖父の話から抜け出して単独行動をしたのは、祖父が皆に対して喜々とした表情と口調を振り撒いていたことに、嫉妬したからかもしれない。

箱根旅行からおよそ二年後。
祖父は九十歳になり、そして死んだ。

夜、祖母から電話があった。静かな声で「お爺さんが冷たくなっている」とだけ言った。「最近旦那が冷たいんだよねぇ」という類の話でないことは、すぐに分かった。

祖父母の家までは徒歩25分程度の距離だが、この時の僕は、5分程で走り抜けたように思う。あんなに速く走ったのは、初めてだった。そして、間近で本物の遺体を見たのも、初めてだった。

凍るような温もりを皮膚に浮かべた祖父の身体が、座椅子に支えられていた。口をポカンと開けている上に、片方の靴下が脱げていて、どこか滑稽だった。すごく安らかな表情をしていて、死んでいるのに、楽しそうだった。

祖父の遺体を囲む親族達は、静かだった。
そんな中、僕の呼吸音が室内に響いた。
祖父に会うため全速力で走った僕の身体は、ひどく汗をかいていた。いや、もしかしたら、祖父を見た瞬間に流れ始めたのかもしれない。

ふと、箱根旅行での祖父を思い出した。
温泉に入りたいな、と思った。